〜新入生歓迎会と有限性〜

 こんばんは。甲南大学文学部社会学科4回生の入江由規(いりえよしのり)です。今回は先日(4月24日金曜日)行われました、新入生歓迎会で感じたことを書かせて戴きます。

 今回の歓迎会は、役員全体が一丸となって開催されました。会長の高屋敷なるさん(笑)の見事な乾杯の音頭にはじまり、食事中も新入生を事細かに気遣う春海くん、会話で周りを盛り上げるE教くんに妃芽さん、無理難題なリクエストに笑顔で応えるmoguさん、部員全体を的確に率いるRiN@さん、そして、全てを切り盛りしてくれた幹事の沙耶さん、役員全体が一丸となった歓迎会は、その場に居合わせた全ての人たちを笑顔で包み、時間はあっという間に過ぎていきました。

 今回の歓迎会は……完璧でした。2時間という限られた時間を、有限の時を、鮮やかに彩り、心の底からコミュニケーションを楽しめる空間を築いてくれました。” 限られている ”からこそ、魅力は最大限に引き出されるということを、先日の宴会は、私の心に、久しぶりに思い出させてくれました。

 2000年代を代表する脚本家、宮藤官九郎さんの代表作である『木更津キャッツアイ』には、主人公のぶっさんが結成した怪盗団「木更津キャッツアイ」のコミカルな活躍の他に、「死」という現実に葛藤したぶっさんの姿が(「ネタ」なのか「ベタ」なのか分からないような形で)描かれていました。若手気鋭の評論家、宇野常寛さんの解説を参考にすれば、本作の魅力は、「郊外」=「終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」(90年代を代表する社会学者、宮台真司先生の初期を代表するキーワード)を、「終わりのある(ゆえに可能性に満ちた)日常」と反転させることで描き出した新しい「郊外」像にあるのですが(宇野 2008: pp148-149)、その「郊外」像を引き立てているものは、「死」=「終わりのある」=「限られた時間」、つまり「有限」にあると言えるでしょう。
 物語の冒頭で余命半年を宣告されたぶっさんは、日常を「普通」に生きることを選択します。それはつまり、「日常の豊かさを目一杯満喫する」ことでした。限られた時間で、仲間たちや周辺の人々と、日常をたまらなく魅力的に過ごすぶっさん。主人公を演じた岡田准一さんを目当てに観始めた女性ファンまでをも、「私も男の子に生まれたかった」と言わしめる木更津は、一種のユートピアと言っても過言ではないと、評論家の宇野さんは分析しています(宇野 2008: p149)。こうした作品の魅力を引き出せた要素の一つがまさしく、「終わりのある」=「有限」性だと思います。

 先日の宴会はまさしく、2時間と言う「有限」の時を、目一杯利用していたと思います。アニメやゲーム、声優などのマニアックトークから、他愛のない会話まで、普段は口下手だと感じていた新入生までをも大いに明るく盛り上げていたものは、「終わりのある」ゆえに「物語に満ちた」空間であったと感じます。そして、この「有限」の空間を完璧に理解し、最大限にまで利用してくれたのが、役員の方々であったと思います。本当に有難うございました。心より感謝申し上げます。

 学生時代の4年間は、あっという間に過ぎていきます。けれどもそこは、「有限」であるがゆえに、ありとあらゆる魅力的な物語に溢れています。細田守監督のアニメーション作品『時をかける少女』の主人公真琴が、タイム・リープ(過去に戻ることが出来る力)を駆使しても変えられないものがあると悟ったように、二度とは戻らないけれども、限られているからこそ素晴らしい大学生活を、新文化研究会の皆さん、そして、この日記を読んでくださった皆さんは、目一杯満喫してください。ちなみに、ラブゾンビな私は、いまだに学生生活が終わってしまうことを嘆いております(笑)。

 ハルヒ「ダメだこりゃ(汗)」

 以上、先日行われた新入生歓迎会について、ラブゾンビな入江がお送りいたしました。


 [参考文献]
 宇野常寛, 2008,『ゼロ年代の想像力早川書房