涼宮ハルヒの挑戦-(評論家)宇野常寛氏の分析を参考に-

 皆さん、初めまして。新文化研究会のKY(空気が読めない)要員(?)、入江由規(いりえよしのり)です。甲南大学の文学部で社会学を専攻する新4回生です。単位がやばいため、未だに毎日講義が入っている阿呆の子です。

 ……と、たいへんに痛い自己紹介はこのへんまでにしておきまして……今回は、最近、改めて放送が始まったTVアニメ『涼宮(すずみや)ハルヒの憂鬱』についてお話させて戴きます。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』は2003年に(角川)スニーカー大賞を受賞した、谷川流(たにがわながる)先生が手がけるライトノベルで、2006年にアニメ化され、EDのダンスなどが話題となって注目を集めた、現在でも根強い人気を誇る大ヒット作品となっています。
 同作は、常に不思議なものを求め、高校入学当日に、初対面のクラスメートの前で「ただの人間には興味がありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところへ来なさい。以上」と宣言してしまうヒロイン涼宮ハルヒが、彼女が無理矢理創設した「SOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)」に、語り手のキョンをはじめ、周囲に集まる人物を引きずり込むところから始まります。実はハルヒには、願望通りに世界を作り変えてしまう「神」に近い超越的な能力があり、SOS団に引きずりこまれた(実際には必然的な結果なのですが……)メンバーは、それぞれの役割を担ってハルヒを監視することになります。また、彼女の周りに集まってくるメンバーは、キョンを除き、宇宙人、未来人、超能力者という特殊な存在となっているのですが、ハルヒはそのことに気付かず、同時に自身の能力にも気が付くことなく、青春を謳歌(おうか)することになります。

美少女モノとしても人気の高い同作ですが、同作にはそれ以外に、2つの大きな魅力が秘められています。1つはセカイ系の臨界点としての魅力であり、もう1つは脱セカイ系としての魅力であります。

 セカイ系とは一般に、「過剰な自意識をもった主人公が、それ故に自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識する一連の作品群のカテゴリ総称」とされています。評論家の東浩紀(あずまひろき)氏が、「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(『きみとぼく』)を、社会や中間項をはさみ込むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』といった大きな存在論的な物語に直結させる想像力」(東: 2007)と述べているように、『イリヤの空、UFOの夏』に代表される一連のセカイ系作品には、主人公の男性を必然的に求めるようになるご都合主義的な美少女キャラクターが登場し、ストーリーのどこかで、世界の危機に立ち向かっていく決断を迫られる場面が、形は違いながらも登場することになります。評論家の宇野常寛(うのつねひろ)氏はこのことから、セカイ系を「自分が行動するなく、自分が何者であるかを無条件で認めてもらおう」と引きこもった碇シンジの延長線上にある「ポスト・エヴァンゲリオン」の想像力としています(宇野: 2008)。セカイ系の作品には、無条件で他者からの承認を得る姿が描かれることから、(きみとぼく以外の)他者との会話と言うコミュニケーションが、度々抜け落ちることになります(これは別に、セカイ系を批判するものではありません。事実、先に挙げた宇野氏も、セカイ系の作品自体を非難しているわけではありませんし、私自身はセカイ系の大ファンであったりします)。

 涼宮ハルヒに話題を戻しますと、ハルヒ自身は、世界を「つまらないもの」と切り捨てているものの、ツンデレ的な、素直になれないながらも消費者視線の男性キャラクター=キョンを無条件に必要としているものとして描かれています。これは、先の段落で紹介した、主人公の男性を無条件に必要とするご都合主義的な女性の登場として考えてみれば、セカイ系の作品と言うことになります。しかし、先に紹介したセカイ系(あるいはその変遷とも言えるレイプ・ファンタジー系(男性ユーザーが自身の肥大したプライドを満たそうと、自身よりも弱い女性を所有する様子が描かれる作品))の作品に登場する女性は、「障害や精神的外傷をもつ女の子」である場合が多く(具体例:『NHKにようこそ』の岬ちゃん)、弱めの肉食恐竜たちのマチズモ=「自分より弱い女の子への所有欲」を、彼らの肥大したプライドを傷つけないように満たすため、極めて周到な構造が提供されることになります。
 しかし、ハルヒの場合は、「直接的に<弱さ>の記号にまみれた少女」が「強がっているが、実は孤独で寂しい不思議ちゃん」に変換されることで、表面上の隠蔽が図られています。また、これだけならば本質的な違いは見られないのですが、「不思議ちゃん」のハルヒキョン(=ユーザー)が振り回されながらも、シリーズ第4作『涼宮ハルヒの消失』で、キョンが、実際にハルヒを必要としているのは自分だと宣言する場面があることから、「セカイ系的な世界観に生きる少女を必要とするセカイ系(宇野氏はこれを、メタセカイ系と呼んでいます)」という形式が、同作にはとられていることが分かります。このように、同作では、何重にもマツズモを迂回させることでセカイ系を強化させる果敢な試みがみられることから、セカイ系の臨界点とも言えるでしょう。

 また、ハルヒは世界を「つまらないもの」としながらも、実際に「SOS団」の仲間と楽しんでいるのは、草野球や夏旅行などのありふれた日常世界であり、「学園青春」ブームをもたらした矢口史靖監督(やぐちしのぶ: 映画監督。代表作(『ウォーターボーイズ』『スウィングガールズ』)が描く「日常の中のロマン」のような青春像なのです。つまり、『イソップ物語』に収録されている『酸っぱい葡萄』のキツネが、高い所にある葡萄を酸っぱいものと決め付けてしまったように、(おそらくは肥大したプライドのために)「日常生活をつまらないもの」と主張して自分自身に言い聞かせているハルヒが本当に求めているものは、宇宙人でも未来人でも超能力者でもなく、日常生活の中のロマンだと言えるのです。ここには、自分自身の肥大したプライドに対する過剰防衛が、実際にはありふれた日常生活を求める自分自身というものを浮き彫りにしてしまうという逆説的な描写が垣間見えます。ハルヒのもう1つの魅力は、日常生活で素直に振舞うことの出来ないユーザーが、『酸っぱい葡萄』的なルサンチマンを中和させ、矢口監督が描く等身大の自己実現の祝福へと接続していく可能性を秘めた、脱セカイ系への可能性にあると言えるでしょう。

 セカイ系の臨界点であるとともに、脱セカイ系としての可能性も秘められた同作。大きな物語が機能しなくなり、伝統的な価値観が自身を意味づけてくれなくなった今日において、小さな物語を紡ぐ私たちには、周囲の人々とのコミュニケーションを通じた、限られた時間でのささやかな幸せがますます必要となってくるでしょう。そんな幸せのヒントを教えてくれるのが涼宮ハルヒなのかもしれません。

 以上、『涼宮ハルヒの憂鬱』について、入江由規がお送りいたしました。有難うございました。

 
 ―引用・参考文献―
東浩紀, 2007,『ゲーム的リアリズムの誕生動物化するポストモダン2』講談社現代新書
宇野常寛, 2008,『ゼロ年代の想像力早川書房